マドリードの歴史に続き、今回はバルセロナの歴史と文化をまとめました。大学で西洋史を専攻した私が本気でまとめたので、これを読めばバルセロナを100倍楽しめること間違いないです!!
バルセロナのあれこれ
バルセロナはスペイン第二の都市で、人口は約160万人。首都圏人口は約420万人です(マドリードは325万人/679万人)。日本人在住者は1,500名程度と言われています(スペイン全体で約8,000人、マドリードは約1,500人)。
地理的には、地中海に面した平野に位置し、市街地西部のクイセロラ山地(山頂は500mちょっとで低い)と川に囲まれたエリアになります。地中海性気候のため、冬季に雨が多く、夏は乾燥します。
交通の便もよく、バルセロナ=エル・プラット空港の旅客数は、ローマをしのぐ4,000万人です。鉄道もサンツ駅を中心に、マドリードとつながる新幹線(AVE)、近郊路線(セルカニアス)、地下鉄などが通っています。
何より、世界的な観光都市で、サグラダファミリアなどのガウディ建築物、カンプノウなど見どころ満載の都市です。世界で最も国際会議が開かれる都市の一つですが、バルセロナに来たくなる理由がわかりますね笑。
バルセロナの歴史
バルセロナはカタルーニャ地方の中心都市なので、バルセロナ=カタルーニャの歴史として読み進めてください。カタルーニャは成立してから1,000年ほどが経過しており、とても歴史のある地域です。
スペイン全体として、ローマ→イスラム→カトリックと支配者が変遷しましたが、イスラムの支配をいち早く脱して独立し、独自の文化を築き上げたことが、今も残るカタルーニャ問題の源流となっています。
*先にスペイン全体の歴史を知りたい方は、こちらから。
それでは、バルセロナの歴史をさらっと見ていきましょう。
①古代〜カタルーニャ成立
バルセロナは、紀元前3世紀のポエニ戦争*を戦った、カルタゴの名門バルカ家の領土でした。バルカは名前の由来にもなっています。ポエニ戦争はローマが勝利し、バルセロナを含むスペイン全土が、ローマの支配下になりました(ローマ属州時代の呼び名であるヒスパニアがスペインの名前の由来)。ローマ時代の遺跡は、ゴシック地区のアウグストゥスの神殿や、バルセロナ歴史博物館の地下にある墓地が見どころです。2,000年以上の前の遺跡が見れるなんて、驚きですね!
*チュニジアを本拠とするカルタゴとローマの戦争
8世紀にイスラムの支配下に入るも、すぐにフランク王国(ゲルマン人)の領土となりました。11世紀にはカタルーニャ君主国が成立し、今のカタルーニャの源流となりました。グラナダが1492年までイスラムの支配下に入っていたことを考えると、早いですね〜。京都は千年の都(みやこ)と言われますが、カタルーニャも1,000年の歴史があることから、近い感覚があるのかもしれません。
②カタルーニャの拡大と衰退
12世紀にバルセロナは、アラゴン連合王国(首都サラゴサ)の一部として多数の海外領土をもち、アテネにまで至る地中海を支配しました。中世都市として囲壁を新しく建設し、活気ある港町になりました。この頃の城壁が、今も残る旧市街の基盤です。
その後、カスティーリャ王国とアラゴン王国の2つの王国が、政略結婚によって連合し、16世紀にスペイン王国として一つになりました。ここで、スペイン全盛期のフェリペ2世がマドリードに首都を定めたこともあり、バルセロナは衰退していきました。
こうした歴史的経緯によって、いまでもカタルーニャの独自性は強く、カタルーニャ語を話す者が多数を占めています。
③カタルーニャの反抗
スペイン継承戦争
1701年にスペイン継承戦争が始まりました。フランス・スペイン連合軍とイギリス・オランダ・オーストリア・プロイセンなどの連合軍が戦いましたが、スペイン内戦の一面もありました。カタルーニャは、マドリード中心のスペインへの反感から、アラゴン・バレンシアと共にスペイン・フランス軍と戦いましたが、最後まで抵抗したカタルーニャは、3回に渡って包囲され、荒廃していきました。スペイン王のフェリペ5世はバルセロナを処罰・管理するために、商業地区(La Ribera)の半分を取り壊して城塞を建設しました(のちのシウタデリャ公園につながります)。
19世紀
バルセロナではスペインで最初で唯一の産業革命が起こり、新しい産業が導入されて都市として成長しました。しかし、中世の城壁がある旧市街が、人口過密による不衛生などの都市問題が発生したため、解決のために市域の拡張が計画されました(大拡張計画)。1859年のこの計画は、碁盤の目のように南北に道路を整然と敷くもので、いまも観光客や在住者を迷わせます(笑)。この時に中世の城壁は取り壊されて、La Riberaの城塞は現在のシウタデリャ公園になっています。
そして19世紀末から〜20世紀初頭にかけてカタルーニャで起こった「モデルニスモ(曲線の使用や華やかな装飾性などを特徴とする新しい芸術様式)」では、ガウディが大活躍しました。これがサグラダファミリアを中心とした現在の観光名所となっていますね。
④現代
20世紀
20世紀の初頭に、カタルーニャが自治と文化的表現の自由の拡大を求めて騒乱を起こし、カタルーニャ共和国の一方的な宣言や自治憲章の採択など、カタルーニャの勢いが増していた。この頃には、人口が100万人を超える大都市になっていました。
1936-39年のスペイン内戦で、バルセロナはバスク州などと共和国政府側につき、無政府主義運動の拠点となりましたが、フランコの軍勢に侵略され、その後恐怖政治と抑圧が続きました。フランコ政権の時代にはカタルーニャ語の使用も弾圧されました。唯一カタルーニャ語の使用が許されていたのが「カンプノウ」であり、FCバルセロナ vs レアル・マドリード(フランコが支援)は、代理戦争の性格を持っていました。
1970年代の反政府運動と独裁者フランコの死去をきっかけに、バルセロナは文化的活動の中心となり、現在のような繁栄した都市となりました。
21世紀
2000年以降も、カタルーニャの独立運動は継続して起こっており、2017年のカタルーニャ独立を問う住民投票とそれに伴う混乱は、記憶に新しいですね。1点注意点として、カタルーニャでも独立に反対する人が相当数いて、意見が割れているという現状です。
おわりに
バルセロナはカタルーニャ地方の中心として、1,000年以上の歴史を持っています。12世紀には地中海に海外領土を多くもち繁栄しましたが、マドリードを首都とするスペイン王国の設立以降、中央政府 vs カタルーニャの対立は現在も続いています。
12世紀ごろに原型が作られた旧市街、19世紀の大拡張計画を源流とする新市街、19世紀末からのガウディ建築など、バルセロナの歴史や文化、街並みを感じてみてはいかがでしょうか。
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