ケーススタディ実践②(本編):ウォルマートのケースを日本語で読んでみよう!

10. その他
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今回の記事は、MBAの授業で実際に使われたウォルマートのケースをベースに、日本語で初心者向けに作成したケーススタディを公開しています!

Sun
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本ケースを読む前に、こちらの記事をイントロダクションとして必ずお読みください!

Walmartの企業戦略(ケース本文)

サム・ウォルトン(創業者)の回顧

 1992年、サム・ウォルトンは、大統領自由勲章を受章するという知らせを受け取った。「ずっと競争だったな。ここまで、長い道のりだった…。」と、彼は過去を振り返っている。彼の人生は、まさに「世界一の小売チェーン」と共にあった。

サム・ウォルトンの小売業との関わり

サムは、アメリカ合衆国オクラホマで農場を営む家に生まれた。ミズーリ大学の経済学部卒業後、米国のトップ小売業として後に肩を並べるJCペニーに就職し、アイオア州デモイン店に配属された。そこで彼は管理職見習い(management trainee)として短期間働いた。

その後、軍隊に入隊したが、1945年の除隊後にアーカンソー州で、ベン・フランクリンのフランチャイズのもと、バラエティストアの経営を始めた(添付1: Sam Walton’s original Walton’s Five and Dime)。

出典:https://en.wikipedia.org/wiki/History_of_Walmart

サムは、仕入れの80%は、ベン・フランクリン本部から、という契約が存在しながら、ぎりぎりの枠の中で規格から外れた業者や仕入れ先を捜し求めて、他州の業者などから、低価格での買い付けを強行した。一個一個の商品の販売価格を安くするため大量に安く仕入れることで、高い価格をつけるよりも多くの売上と利益を手にする「薄利多売」というスタイルである。こうした結果、サム・ウォルトンの店が地区トップの売上げを実現していた。こうした「薄利多売」に対して、当時のバラエティストアは45%という、高い粗利益率を誇っていたのが特徴である。

サムがこのようにバラエティストアを経営していた1950年代に、ディスカウントストアが生み出された。第二次大戦後の消費物資の生産制限が撤廃され、かつてないほどの消費活動が活発化する中で生み出された形態で、景気の上昇は値段の高騰を招き、経費を抑えて運営する新しい小売業態を生み出すようになる。第二次大戦の終了により、戦地から戻った人々が都市に職を求め、都市郊外に住むことによって郊外での商業集積が生み出された。車を利用したショッピングセンターやファーストフードレストランなど、新たな消費をめぐるライフスタイルが発展するようになった。

こうしたデイスカウントストア事業の将来性に注目した異業種の企業が、活発に参入したのもこの時期だ。バラエティストア、スーパーマーケット、デパートメントストアといった多くの小売企業によって、ディスカウントストア業態が形成され、急速に発展した。

ウォルマートの創業

1962年、サムは弟のバドと一緒にウォルマート1号店をオープンし、ディスカウントストア経営に本格的に乗り出した(添付2: On July 2, 1962, Sam Walton opened the first Walmart store in Rogers, Arkansas)。

出典:https://corporate.walmart.com/our-story/our-history

同時期に、800店舗ものバラエティストアのチェーン店を展開していたSSクレスゲが、デトロイト郊外のガーデンシティにKマートというディスカウントストアを出店させた。ディスカウントストアの売上高としては、一躍トップに躍り出た。同じく、歴史のあるウールワースが、ディスカウントストアのウールコを展開した。デパートメントストアからはミネアポリスに本社のあるデイトン・ハドソンが経営多角化の一環としてディスカウントストアのターゲットを4店舗オープンさせた。

これら大手は、ディスカウントストア経営の生命線ともいえる在庫回転率を高める狙いから、多くの顧客が期待できる大都市の周辺部を商圏として設定した。逆に、ウォルマートは1号店のオープンに続き、2年後に人口6,000人のハリソンという町に2号店、さらにスプリングデールに3号店を出店した。いずれも人口が1万人以下の小さな町での出店だった。

ウォルマートの拡大

ウォルマートの出店は、常に物流センターを軸にして判断され、そのセンターがカバーできるエリアに店舗を集中的に展開した(ハブ・アンド・スポーク戦略)。ここでは、各店が直接納入業者に発注し、運送業者から商品を届けてもらう方式から、各店の発注や入荷を物流センターに集める集荷方式や、物流センターに発注品が入荷すると、すぐにそれを個々の店舗ごとに仕分けして配送するクロスドッキングが採用された。

店舗や物流、それに情報システムには多額の投資が必要となり、銀行からの借金による資金調達では限界であった。1970年には、ウォルマートは店頭取引の株式公開企業となった。

1970年の株式公開は、借入金の圧力からウォルマートを解放する役割を果たし、成長が持続するようになった。この頃から、出店戦略と物流センターがセットになって進められるパターンが確立する。ウォルマートの出店戦略は、1970年代に入るとただ単に人手のディスカウントストアが相手にしないような小さな町に闇雲に出店したのではなく、あらかじめ大手が避けてきたエリアでも、都市の成長が郊外に波及して、将来的に人口の増加が予想できるようなところを狙って立地戦略を練っており、そうしたエリアに物流センターを設置し,その守備範囲内に、多くの店舗を飽和状態になるまで増やしていく方法をとった。

Kマートなどの大手のディスカウントストアや、テキサス州に本社を置くチェーンのギブソンズが、人口1万人以下の町には参入しなかったことも、ウォルマートには幸いした。

ウォルマートは、当時はまだ本格的な仕入れ体制や経営組織が確立されておらず、試行錯誤しながらの組織づくりが続いた(添付3: A Wal-Mart store in the 1980s)。

出典:https://en.wikipedia.org/wiki/History_of_Walmart

創業当時からすべての店のマネージャーを集めて反省会を行うサタデー・モーニング・ミーティングという会議を開いてきた。会議は土曜日の早朝にベントンビルの本部かその周辺のモーテルの一室で行われ,その主な内容はマネージャー全員で仕入れ商品の売れ行きやコスト、次の特売商品の選定などマーケテイングの問題を共有したうえで徹底した議論が戟わされ、ミスを反省しながら、すぐに改善に役立てた。

サム・ウォルトンは、店を回って現場の従業員やマネージャーと親しく接しながら情報を収集するだけでなく、またこうした会議を適して現場から提出されたさまざまなアイデアを積極的に改善に活かしていった。

この方式は今日でも受け継がれ、ベントンビル周辺に住む上級管理職の多くは月曜の朝、現場に出かけ多くの店を訪問して問題点を見つけ出し、週末の金曜(マーチャンダイジング会議)と土曜の会議(サタデー・モーニング・ミーティング)で上司に報告するという、仕組みを実施し、巨大な企業でありながら現場の店舗で起こっていることを迅速にフィードバックする優れた方法を実践してきた。このシステムによってウォルマートの文化を末端まで浸透させるという役割も果たしている。

ここでは、コンピュータを駆使して、顔客や商品の動きから膨大なデータを収集し、電話回線を通して、後には通信衛星まで使って店舗・バイヤー・本社・メーカーを結びつけ、顧客のニーズに適した商品を調達し,過剰な在庫を抑えて、タイミングよく配送できるネットワーク作りとその運用が顧客獲得と競争優位を決める重要な条件になっていた。バーコード、スキャナーデータそれに在庫管理が小売業成長ためのキーワードになった。情報技術を有効に活用することでマーチャンダイジングやそれを支える物流が効果的に機能することがウォルマートの経営陣の意識に浸透してきた。

すでにウォルマートでは,、1978年にUPC (ユニフォーム・プロダクト・コード)によるバーコード・システムや、コンピュータによる品目別在庫管理に取り組み,、1983年にはこれらが本格的に採用されだした。 1987年までに巨額な資金をつぎ込んで衛星による通信を実現させた。店舗数の増大とともに、各店のPOSターミナルのスキャナーから発信されるデータは電話回線を利用して本部に送り込まれていたが、すでに回線容量を超えて混乱をきたしていた。通信衛星の導入によって、店舗で扱う全商品の曜日ごとのデータが過去65週間に渡って引き出せ、特定の商品についてどれだけ仕入れ、どれだけ売ったかを、全体はもとより、地区、店舗別に正確に把握することができるようになった。1988年にはウォルマートの店舗の98パーセントがバーコードでのスキャニングが可能になったとされる。

さらに衛星を利用することで、問題のある店舗を瞬時にして探し出すことができるばかりでなく、テレビスタジオから現場や全従業員にメッセージを送ることも可能になった。この通信衛星によるシステムは民間では最大で、アメリカ国防総省に次ぐ処理能力を有するとまでいわれている。これによってデータや音声を本部とチェーン店の双方向でやり取りでき、本部から各店に映像を送ることができるようになった。

Everyday Low Price (EDLP)

ウォルマートの代名詞の一つに、EDLP(Everyday Low Price)があるが、当初はEDLPといっても、販促や値引きが頻繁に行われていたが、ある時期からやらなくなった。顧客にいつもディスカウント価格を提示するということは、販促活動を行わず、広告宣伝費やそこで必要となる人件費などをかけない分、低価格を実現することができる。もし、時々の特売や一定期間だけの安売りを行う場合は、顧客はその時期だけ安い目玉商品だけ買って、他には目もくれず帰ってしまったり、安くなるまで待っているといった状況が生まれ、顧客を常時店に引き付けることができなくなる。 

EDLPの効果は、消費者に対してはその心にウォルマートのすべての商品が安く売られているというイメージを作り出すことによって、実際にはすべての商品が安いわけでなくても,他の店との比較購買をあきらめさせるように作用する。

ベンダーとの関係

1987年になってからは、サプライヤーとの関係も、従来のような敵対的関係で、安値で買い叩くというやり方から、両社ともウイン・ウインの関係を求めてパートナーシップを築くようになっていった。

特にP&Gとは、コンピュータを清川したEDIによって売れ行きの状況や在庫データなどの情報を共有し,、P&Gはその情報をもとに効率的な生産や出荷計画を立案できるようになった。低価格と高品質を同時に実現するためには,サプライヤーと製造原価や両社の粗利益率など重要なデータを共有しながら、共同で計画を立て、予測それに補充といった方法で相互に生産や在庫を調整するようになった。

これをモデルとして多くのサプライヤーにも同じ関係を確立し、やがてこのパートナーシップは他のチェーン企業とサプライヤーの間でも積極的に取り入れられていった。このシステムによって、ウォルマートは迅速な補充発注により欠品の防止と過剰な在庫を抑え、コストの節約と高い生産性を実現する。

P&Gにとっても、リアルタイムの需要情報にもとづいて生産することで、在庫を減らすことができた。しかも。両社のパートナーシップ構築の結果として,、P&Gの社員が自社製品の補充を管理するためウォルマートの本社に常駐するようになっていた。

1990年には、バーコードと通信衛星によるコミュニケーションを利用して、販売動向や在庫水準についての精度の高いデータを取引先に共有させ、顧客満足という共通の目標のために各店舗とサプライヤーとの緊密な関係を形成するリテールリンクというプログラムが構築・運用された。

Kマート

1970年代後半に、巨人なディスカウントストアとして発展していたはずのKマートは、ウォルマートの情報や物流に対する改革の流れとは対照的な状況に置かれていた。1980年代に入っても、コンピュータを利用して効率的に売れ行きと発注状況を把握することができないままだった。そのため、1983年時点で、販売商品1ドルに対して,、Kマートでは流通コスト5セントをかけていたのに、ウォルマートでは2セント以下で業界最低だった。このことは、ウォルマートがKマートよりも低い値段で売っても、Kマートと同じ利益を得られたということである。これは、Kマートが価格を下げて販売しても、ウォルマートはさらに安く売ることができ利益も多く得られる仕組みができていた。

Kマートの経営陣の情報と物流に対する保守的な姿勢は1990年代まで続いた。むしろ成長を急ぐあまり資金の多くが専門店など他業態の買収に流れてしまったことも、対応を遅らせた要因である。 1989年にはウォルマートはKマートの売上高を追い抜くことになった(添付4: Walmart’s Imcome Statement)。 

出典:Walmart Annual Report (1990)

決断

サムは長い回想のあと、部屋で一人つぶやいた。「小売業界で勝ちづけるのは本当に難しい。小売業界のKSFとは、何なのか?ウォルマートの競争優位性は何か?競争優位性は維持できるのか?次にやるべきことは何か?こうした問いを考え続けなければいけない」(添付5: 10 Rules for Building a Business by Sam Walton)。

出典:https://corporate.walmart.com/our-story/history/10-rules-for-building-a-business

おまけ動画:ウォルマートの歴史(1990-2001)

ケースを読み終わったら

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